こんにちは。アルテミスです。
ここまで合計7パートに渡って政治について喋ってきました。今回はその最後に総纏めとして「健全な民主共和政はなんだろう」を考えていきたいと思います。
まずはここまでの総おさらいをしましょう。
1では『統治』とは国の持つ資源(時間・人・金・物)を配分する行為、『政治』とはそれに関わる人たちが自分にとって有利または有為な資源配分を行うための試みを指す、という話をしました。
2では「社会契約」によって国家や統治者に資源配分の権利を委ねた人民に対し公正な資源配分を行う事が『正しい統治』であり、それを皆が追及する事が『正しい政治』であるが、現実にはそれは極めて難しく、未だに模索が続いている課題である事を話しました。
3では社会契約によって成り立った政府である以上、人民が『正しい統治(=公正な資源配分)』を行う事ができる人を選ぶ権利を持つ事が民主主義の根本の考え方だと話しました。
4では人民の欲求に全て委ねる事だけが『正しい政治』を意味するのではなく、公正(≠平等、偏在)な資源配分が行われるために『公共善』を目指す事が『良い政治』への道であるとする共和主義の立場を解説しました。民主主義と共和主義の両輪によって現代政治の基礎を為します。
5.6.7では各論的に立法、行政、司法について解説しました。
長々と話してきてなんですが、結局正しい政治とか正しい統治などと言うのは人の数だけ答えがあるので追求しようがありません。「私が正しい政治を知っている」などと言う思想は極めて独善的で、思想的な排他性の強いものです。
「平等」な資源配分を目指すだけなら、全市民に同一賃金を配れば良いだけですが、当然人類の生活を支えるには様々な仕事があり、向き不向きもあれば才能や意欲の有無もあるため百パーセントの平等は不平等を孕む事となります。とは言え一人一人の潜在能力とか意欲とか、本人ですら知らない事を定量化する事も不可能なので完全な「公正」もまた難しい。
これが『正しい政治』の実現困難性、不可能性を物語っていると言えるでしょう。
私は正しい政治のやり方なんて知りませんし、知らない事を知る『無知の知』の立場に立つ事を己に課しています。
だから日々のニュースとかを見て一々「政府の対応が…」「これだから政治が…」と怒りを抱く必要もないですし、分からない物には分からないと自分に素直である賢明さを保っています。
私の政治に対する関心は個別具体的な事象への対応とか政策、イデオロギーや属人的政治論ではなく、もっと抽象的な次元に立って『どういったシステムを構築する事が、健全に社会を維持発展させられるか』と言う方向に向いています。
ですので、『正しい政治』ではなく『人の数だけある正しい政治の中で、ちゃんと社会を運営するシステム』を考えているのです。
[16:22]
この意味で私は民主共和主義者です。政治論で『国家はどの方に向かうべきか』と言う話を始めれば、極論すればそれはその方向へと国を引っ張る独裁者に権力を委ねるのが最適解となり、反対派を粛正する恐怖政治が一番合理的となります。
民主政と言うのは暴力でなく対話で『良い政治』を追求する事ができた点で画期的な発明です。しかし当たり前ですが人の数だけ『こうして欲しい』と言う欲求はありますし、時にはその利害が真っ向から衝突する事もあります。結局『全国民皆がハッピー』とはいかないのです。
低所得層のために富裕層や大企業から高く税を取れば、富裕層や企業は税率の安い国へと資産を移し、社会全体が弱体化します。かといって国債で賄おうとしても国民全員に十分な給付が届く程まで乱発すれば通貨の信用棄損や悪性インフレを招いて国家の信用自体が損なわれます。
もっと難しいのはお金や生死と言った実利的な課題のみならず、現代社会にはイデオロギーの壁もあると言う事です。
原発の賛否、環境保護論、移民を受け入れるべきか否か、憲法改正…これらはどの選択をしても今の時点でどのような結末をもたらすかは予測しかできません。そしてお互いに自分の信条に都合の良い未来予測を基に主張を繰り広げる他ありません。個人個人の理想や信条が異なる以上、単に実利を分配すれば良いと言う話でもなくなっています。
このように『全員が満足する選択』は決してできない現代社会にあって、仮に自分の主張を通す事にテロリズムが正当化されればどうなるでしょう。
どの主張を取る人も、それに敵対する主張を取る人を殺害し、その報復の連鎖が起きるでしょう。どの選択をしても全員は満足できないのだから、誰も何も選択できなくなって社会は自然崩壊へと向かう他なくなります。
テロリズムが許されない理由がこれであり、言論によって国の行く末を決める事の大切さはこれに尽きます。例えどのような主張をしてもそれを理由に命を奪われたり、逮捕拘禁される心配が無い限り、社会の発展は望みえません。
これは『自由主義』の考え方であり、『共和主義』の基礎でもあります。誰もが自由な意見、信条を持ち、何者によっても制限されない事です。
ただし、民主主義がそのまま自由主義を保証しないことには留意すべきです。多数派が『この言論は不適切だから封殺すべきだ』と言えば法制定によって言論封殺が行われるでしょう。これが所謂「寛容のパラドックス」であり、不寛容性にも寛容である事で結局寛容性が殺される事を意味します。
不寛容は対しては不寛容である必要がある。これは自由主義に立つ発想です。思想的不寛容性を許容すればそれは民主主義の自殺を招く事となり、特定の不寛容の独裁を許す事となります。
ここまで敢えて私は俗に言う右翼とか左翼とかの肩を持つ気はありません。それらの思想に肩入れしたくてこれを言っている訳ではなく、そうした思想が自由にその精神や理想を涵養して発信できるべきであり、決して相手の思想や言論を封殺し合うような社会であるべきではないと言う事を述べたいのです。
人間社会は方程式や物理法則で動く社会ではありません。もし人間の行動がラプラスの悪魔よろしく定量的データだけで測定できるなら社会主義が失敗するはずがないのです。
人間は不完全で不合理的で、そうした人たちが無数に集まって社会が出来上がっている事、『正しさ』は相対的なもので、人の数だけ正解が分かれる事を理解すれば、「自分の意見が絶対に正しく、相手は愚か者だ」と言う迷妄から覚められるでしょう。
不完全な人間同士が意見を出し合い、何かしらの結論を導く。それが正解である時もあれば過つときもある。それは民主主義社会では決して避けられない事です。一度も過ちを犯さず、無謬だった国家も人間もありません。自分が完璧でない人間が、他人に完全無謬である事を求められるでしょうか。
それを理解しておくことが、健全な民主共和政を目指して国民が政治に向き合う姿勢であると私は考えています。
本当はもっと色々と書きたい事もあるんですが、あまり言いすぎると私の思想の押し付けになってしまうし、何より面白くもありません。このくらいにしておきましょう。
ここまでで一度政治のお話はやめておきます。またいつか、折に触れてこんな話をするかもしれません。
それでは、次の物語でまたお逢いしましょう。