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徒然思考Part7 三権のはなし〜司法ってなに?〜

 こんにちは。アルテミスです。

 もうそろそろ一旦政治解説シリーズは終わりにしようと思ってます。小難しい話ばっかりになったのと、もっと色々な話を広げたいなと思いました。

 さて、今回話していくのは三権の最後、司法のお話です。日本や米国においてはこれを最高裁判所を頂点とする裁判所が担っています。

 法を司るという言葉の通り、司法は法を取り扱う役割です。立法府が法を作り、行政府が法を執行するなら、司法府は他の二権が法に従っているかを判断します。

 このため裁判所の話に求められるのは中立性と、法の支配を最優先する姿勢です。言い方を変えれば、個人のイデオロギーや世論の動向に関わりなく、現行法に基づいて判断を下すことが求められます。

 世で起きる犯罪やその背景、また他にも民事訴訟や憲法判断など、法律の条文があっても裁判の判断が求められるシチュエーションは様々です。複雑な背景を持つ事案に機械的に条文を当てはめることができない場合も多く、そうした場合に判事は過去の判例や法律に従い、公正な判決を行う必要があります。

 裁判員制度という制度があります。一般の民間人を裁判に参画させる制度ですが、判事と比べて裁判員は法の条文限界まで重い刑を主張する事が多いという統計があるそうです。

 被害者が可哀想だ、こんな悪いことをした犯人が許せない、といった思いがあるのですが、司法府の判事は感情論ではなく法に基づき公正な判断を下すことが求められます。それが例え一般の国民感情と違っていても、法のもとで公正であるということは重要なのです。

 裁判には判例というものがあります。過去に起きた事例とそれに対する判決には原則として従う事が慣例です。時代が変わり、世論も違うだろう、という場合もあるのですが、もし同じ法律の条文で過去に下した判決と今の判決に差があれば、それは差別ということになるため望ましくない訳です。

 これは最高裁判所において最も政治的な重要判断となる憲法判断にしても同様です。国民世論におもねる判決は下すべきではないですし、政治家に忖度するような判断をしてもなりません。あくまで現行法に忠実にあることが必要なのです。

 判事、特に最高裁の判事は身分が保証され、恣意的に辞めさせられることはありません。もし最高裁判事を政府の意向で辞めされることができれば、判事は辞めたくなければ政府の意向に従った判決を下さなければなりません。

 同様に衆議院選挙と同じ日に行われる国民審査も民主的統制の一環として行われますが、これが今より遥かに辞めさせやすい制度だとしたら判事は辞任を恐れて法ではなく世論を見て判決を下すようになるでしょう。

 民主主義の国にあっても、国民や政府の統制を受けるべきでない機関というのは存在しています。司法府、会計検査院等があてはまりますが、それは法の支配とその公正を守るために必要なことです。

 法の概念においては平等よりも公正である事が重要です。時々”判例をくつがえす”判決がニュースに流れる事があります。先程平等の概念から判例が変わることは望ましくないとされるという話をしましたが、当然過去の判断が未来永劫絶対に正しい保証はありません。判事とて人間ですから、全ての判決が公正さに満ちているとも限りません。

 そのために時局や価値観の変化というためでなく、法に照らして公正か否かに鑑みて、判断が変わるということもあるでしょう。現代日本では法は民主社会を健全に運営し、人々の権利を守るためにありますから「法を守って国滅ぶ」では意味がありません。

 とにかく大事なのは現行法の条文により、人々の権利が正当に守られて、社会が健全に運営される事です。司法府はそのために世論や権力の干渉を受けない「共和主義」の発想で国家の運営に参画しています。

 

 今回は少し短くなりましたね。次回はまとめのつもりで「健全な民主共和制は何だろう」を考えていきたいと思います。

 それでは次の公演で。