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徒然思考Part4ー共和主義って何?ー

徒然思考Part4ー共和主義って何?ー

 

 こんにちは。アルテミスです。

 

 何だかんだと四回目までやって来ました。この辺りで一度これまで話してきたことのおさらいをしましょう。

 

 一人では生存の保証ができない人間が国家という組織を作って人の物を奪う権利を国家に譲り渡す「社会契約」を行ったため、財や人、時間と言った「資源(以降、分かりにくいので「財」と呼びます)」を分配する事が「統治者」に求められました。

 

 しかし統治者の欲しいままに財の分配をすれば多くの人が財を受け取れない可能性がある。だから統治者の周りにいる政治家は財を自分達にも配分するよう試みます。これを「政治」と言います。

 

 統治者も政治家も、皆が民の事を第一に考える哲人であれば何も問題はありませんが、現実は自分や自分の身の回りの人の利益のためだけに権力を振るう者も確かにいるので、民から搾取した財が正しく民に再分配されるとは限りません。

 

 社会契約が正しく履行される(=皆に公正に財の分配が行われる)ためには、一握りの人間だけに権力を持たせるのではなく、人民が政治権力を持たなければならない。

 

 こうした理論的背景から民主主義が世界各地の国で主流となっていきました。

 

 さて、今回は所謂「三権分立」の基礎となった「共和主義」について考えていきます。現代政治を知る上では「民主主義」だけではなく「共和主義」も理解しなければなりません。

 

 現代では時に「民主共和主義」と言われ混同されることもある言葉ですが、アメリカの二大政党が民主党と共和党であるように、二つの言葉には明確な差異が存在します。

 

 日本語で「共和」と命名された言葉の語源はラテン語の「res publica」です。「私的」を意味する「res privata」(プライベートの語源)と反対に「公共」を意味し、パブリックの語源となりました。

 

 この言葉で政治を表すと、政治は「公共善(コモンウェルス)」を図るべきものだ、という主義主張になります。

 

 公共、即ち社会の「善」の解釈は、現代の言葉で「公共の福祉」「一般意志」と言い換えて差し支えの無い概念です。

 

 公共の福祉とは日本国憲法にも示された概念ですが、大雑把に言うと「国民全員が誰からも人権を制限されない状態」と考えて良いでしょう。平和で健やかで安全な人生を送る事ができる、という状態でここまで述べてきた「社会契約論を下地にした良い政治」の目指す方向と同じです。

 

 学術的に詳しく書くことが目的ではないので語弊を恐れず言うと、「国民みんなが幸せに生きられる事(そのために財が公正に配分される事)」が「公共善」と考えて間違いでは無いと思います。

 

 余談ですがこれは唯物論的に見た考えであって、逆に唯心論的に「国民皆が神様を信じ、清らかな心で助け合って生きていく」事が「善」と見る事もできます。

 

 結局何が「善」で「正しい」のか、世界三大宗教の間でも言ってる事が違うものを世界全ての人間に共通する見解など持ちようがないのです。だからここまで「正しい政治」という言葉を「生存保証のための財の分配」を「善」として社会契約論の前提の上に成り立たせて来ました。

 

 とまぁ、政治学が突き詰めると人類学や宗教学になると最初に言ったのはこういう意味です。が、そんな難解な議論を見たい人はいないと思うので話を戻します。

 

 見てきたように「共和主義」とは、「公共善」を目指す政治思想である、と定義できます。

 

 理想はそれで良いのですが、問題はそれを目指すためのアプローチです。これまで見てきたように、王様一人が絶対的権力を握れば、王様が自由に権力を振るうことができるので、王政では政府によって公共善が追求されるとは言えません。これでは「王政」は「僭主政」へと堕落してしまいます。

 

 では一人の国王ではなく、一部の賢者たち(=前回出てきた「第二階級」)の合議で決めるのはどうでしょう。これを「貴族政」と言います。

 

 しかしこれも貴族らが腐敗すれば財産や家門だけは一丁前の、自分の利益だけしか考えない貴族に権力が牛耳られ、財が彼らの政治ゲームの材料にしかならない「寡頭制」と化してしまいます。

 

 では「第三階級」に権力を委ねましょう。「民主政」ですね。しかしこれもまた不完全なのです。

 

 一つ例を上げましょう。ある町でゴミ処理施設を建設する事になりました。当然市民生活に必要ですが、場所が問題です。皆自分の家の近くには建ててほしくないから反対します。仕方無いので山を切り開いて土地を確保しようとすると環境破壊だと批判されました。では町の外に処理を委託しようとすると税金の無駄遣いと叩かれます。

 

 と、単純に民意だけで政策決定を行おうとすると皆の利害や理想が衝突して何も決まらない。民主政は容易に「衆愚政」に堕落もします。少なくとも古来の政治思想家たちはそう考えて来ました。

 

 やたらと強い語調で色々言いましたが、決して民主政自体を否定したい訳ではなく、民主政の「最悪の側面」を述べただけです。

 

 王政は僭主政に、貴族政は寡頭政に、民主政は衆愚政にそれぞれ堕落し、それ単体では「共通善」が叶えられる政治はできない、と言う考え方は紀元前のギリシャで既に産まれていました。

 

 アリストテレスは王政も民主政も、それ単体では腐敗の果てに最悪の結果をもたらすと考えました。そこで彼は「極端な王政」と「極端な民主政」の中間に穏健な多数派支配となる「ポリティア」を見出すことを考えました。理想的な貴族政、というべきでしょうか。

 

 アリストテレスが後の「混合政体」現代では「三権分立」と言われる思想の原型を作ったとも言えるでしょう。

 

 中世イタリアの思想家マキャベリは、現代では「目的のためには手段を選ばず」的な統治論(マキャベリズム)で知られていますが、彼の本質は「最善の国政は何か」を追い求める共和主義の始祖と言うべき思想家でした。

 

 彼が思い描いた理想の政体が「混合政体」です。ローマ共和政を高く評価したマキャベリは王政(ローマでの執政官)と貴族政(元老院)、民主政(民会)と三つの政治体制の混合による相互抑制を理想としました。

 

 そして現代まで受け継がれる共和主義の理想の根幹「三権分立」を唱えた主要な思想家が有名なモンテスキューです。

 

 ただし現代において誤解されがちですが、モンテスキューの理論は「三権分立」というより「僭主政と衆愚政の抑制」でありました。

 

 

教科書的には民主主義と結びつけて行政権(執行権、統治権とも。法律の枠内で政策を実際に行う権限)、立法権(法律を作り、予算を決める権限)、司法権(法律に則った権限行使がされているか監視する権限)という三つの権力に分割して相互に抑制し合うもの、それによって人民の権利が犯されないよう防ぐという考え方と説明されがちです。

 

 ただし実際には王様が持つ統治権をどう制限して暴走を防ぐか、また一方で政治的教養を持たず、短絡的欲望のままに政治を動かそうとする大衆の権力もどのように制限するか、をが主眼でした。「共和主義」が「民主主義」と分けられるのはこれが理由です。

 

 民主主義は人民に権力を持たせる事が最善の道と考えます。一方共和主義は愚かな大衆にすべての権力を委ねては最適な国の形にはままならず、君主だけでなく人民の権力も抑制する事で「公共善」が実現できる、という考え方です。

 

 モンテスキューは王(第一階級)と人民(第三階級)双方を抑制するため、中間層となる貴族層(第ニ階級)の発展に望みをかけました。伝統ある家門から「ノーブレス・オブリージュ」を持つ貴族層が統治と政治双方を監視する事が必要である事を訴えたのです。これが所謂「法服貴族」の概念で、現代における「司法権」のはしりとなります。

 

 ただ現実にはモンテスキューが理想とする「立憲君主制」はイギリス程度しか(イギリスすら今や国王権力はほぼ皆無)まともに成立せず、ほとんどの王国や帝国が民主主義の波に呑まれて今では行政、立法、司法全てに民主的選出システムが介在しています。

 

 日本で言えば行政を行う内閣は立法を担う国会の選挙の結果によって組閣されますし、司法を担う最高裁判事は内閣に指名され、国民審査を受けます。しかし権力の相互抑制が暴走を防ぐ、という概念自体は生きています。それが現代の「民主共和制」なのです。

 

 共和主義の概念は異説もあり、私の論が絶対的な正解とは言いづらいです。よかったら本とか読んで考えてみてね。

 

 今回で国家の基本的な仕組みの話ができたので、次回からは「行政権」「立法権」「司法権」の中身を考えていきたいと思います。

 

 それではまた、次の公演で。