こんにちは。アルテミスです。
前回に引き続き、政治について語っていきます。
前回は政治とは何か、統治とは何かについて定義しました。そして今回は「良い政治」とは何かを考えていきます。
前回触れたように、統治とはたった一人の統治者(統治者が二人以上いる場合も考えられますが、その場合複数の統治者同士で「政治」が行われる事になります)による資源の配分行為です。
そしてそもそも何故国家や統治者が必要になったかというと、ルールやリーダー無しには人々は決して無限にある訳ではない資源を自分が生き抜くために殺し合って奪い合うしか無くなってしまうからです。
こう言うと国家の権威を無くして、全ての人民が自給自足生活を送るべきとする共産主義の理想に真っ向から対立することになりますが、少し考えたら冷害や自然災害で自分の農作物が不作になれば、隣人を殺してでも食べ物を確保しようとする事は自明の理です。
その「万人の万人に対する闘争(ホッブス)」状態を肯定するなら無政府主義もOKなのでしょうが、まぁ現代人の大多数はそんなリアル北斗の拳状態は望んでいないでしょう。
つまり人類は平和的に生存するために、他人を殺してでも資源を奪う「権利」を放棄して、資源配分の権利を国家に委ねた(=そういう契約を国家と結んだ)のです。これを「社会契約説」と言い、現代の政治の考え方の基礎中の基礎になっています。
以上から、国家はそこに属する人々が資源収奪の権利を放棄(=私有財産の保証)して資源配分を委ねられた存在なのだから、「契約」に従って全人民が収奪せずに生きられるよう資源を配分する行為が「正しい統治」という事になります。
しかし統治者が「正しい統治」を行う事ができるとは限らない。これが最大の問題です。もし統治者が誰の制限も受けず好き勝手できるとすれば、余程自己犠牲の精神に溢れでもしなければ国の資源(「税」も国民から奪った資源です)を自分のために使い込むでしょう。
勿論統治者以外の誰もそんな事望まないからもっと自分達のために資源を使うよう求めます。この統治の最適化の試みが「政治」です。しかし彼ら政治アクターたちとて皆が皆聖人ではないから自分が多くの利益を得たいと思うものです。
つまり「正しい統治」のためには統治者が正しいだけでなく、それを囲む人間全員が正しい必要があります。それによって「正しい統治」を達成するための「正しい政治」が完成するのです。もっともそれが絵空事なことは言う必要も無いでしょう。哲学者プラトンが解いた哲人政治と言うのは「聖人として教育された哲人が国を統治すれば完璧じゃん」と言う考えです。まぁ現実的に不可能な訳ですが。
プラトンの弟子アリストテレスは「人間全員が聖人になる事、聖人を常に統治者にし続ける事は無理だから、自分だけのために政治を行おうとする人間がいても正しく統治が行われる仕組みを作ろう」と考えました。「正しい政治」は不可能だけど、少しでも正しく機能する政治を考えよう。それが政治学の目的です。
この考え方がローマ民主政やそれを称賛するマキャベリの混合政体論、さらにモンテスキューの権力分立論へと発展して現代の政治体制の素地を作っていきます。
権力分立の説明のためにはまず民主政への理解が必要で、そのためには政治的な階級への理解が必要です。次回はそれを解説し、今までより具体的な政治論をお話していきます。
ここまで読んでくれた方、ありがとうございました。それでは次回の公演で。